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「萬丸」とは:宇宙の真理を表す
ピラミッド社会から人を思いやる【まーるい社会の構築】
私たちの肉体は、食べた物が消化吸収されることで形創られています。食の質が生命の質を決定するのです。「食は文化」と云います。それは、人間の営みの全てが「食の質」によってコントロールされている事と同義でもあるのです。
「食の質」とは何でしょうか?
各々が求める質の違いはあるでしょうが、その質が「命の質」に直結しているのです。「命の質」とは、心身の健康の度合いの事です。つまり、誰もが高水準の健康を求めていることに異論は差し挟まないでしょう。
食の質が、命の質 を決定づけている事を、多くの人々は軽く見ています。植物は、生き残りの戦略から「レクチン」と云う物質を生み出して、昆虫などの害敵から身を守ります。例えば毒キノコによって死亡に至る例もある様に、野生の植物には特に多く含まれています。灰汁抜きや、火を使う調理法は、この毒を排除する知恵なのです。昔からのこの様な知恵を台無しにする行為を、我々は平然と犯しているのが、栄養不足と添加物まみれの、現代食の闇と云わざるを得ません。自ら毒を添加し、人口削減に寄与しているのが我々なのです。
「一億総半病人」と云われて久しいのですが、現代,益々その勢いは加速しています。栄養・食事指導に使われている栄養学は、人体生理に適合しない間違った栄養分析学でしかなく、未だにこの遅れた栄養学によって食習慣が組み立てられているのです。最新の栄養生理学は、人類に伝わる古い叡智を織り交ぜた、人の生理に適った食事法を取り入れなければ、真の健康を得られないことを証明しています。「エビデンスを示せ!」と云う科学偏重の論理ではなく、自然によって生かされている「生命」は科学技術以前の、自然の摂理によって営まれている事を忘れてはなりません。
しかし、誤った常識の氾濫によって、食への問題意識は低く、多くの人は「食と健康」の関わりについて、深い関心を示しません。「自分は違う!」,と反論も有りそうですが、常識的な健康法で「真の健康」を得られるなどと思わない方が賢明です。末節の健康法では時間と労力の無駄であり、健康志向が隆盛の昨今にあっても、病院に人が絶え無い事でも明らかでしょう。
健全な命を維持し、健康を担保するには、相応の多種多様な栄養素が必要量、足りている事が重要なのです。一般的に摂取される現代食には、決定的に栄養素が不足し、添加物が多量に使用され、不自然極まりない食品であり、この不自然な「悪食」によって、子供から大人まで心身を病み、これを「食源病」と称します。
人類は完璧とも云える「防御システム」を備えています。そのお陰で百年間、耐えられる肉体を与えられているのですが、それは「自然の摂理」に従って生きた結果なのです。自然がこの世の全てを生みだし、その豊かな恵みを、人類に与えてくれています。人もまたその産物なのです。人が心身共に健康を享受しつつ、人生を全うして、生命を生かしきるには、自然に寄り添って生きるしかありません。
私達が日々摂取する食物の質で健康になり、病気にもなるのですが、現代食の様な不自然食であっても、食物に含まれる毒素は、恒常性維持機能が余りにも優れているが故に、日々排泄・解毒され、傷んだ臓器の修復・再生がおこなわれて健康は維持されます。それによって悪食の恐怖が覆い隠されて、突然重篤な病に見舞われる事にもなるのです。
繰り返しにはなりますが、その毒素や傷んだ組織の処理に必要なのが、生命力の根源の一つである、各種の自然由来の必要不可欠な、「栄養素」の数々なのですが、現代食は栄養不足と、不自然食、不要な化学物質に汚染されています。その毒素の蓄積による弊害と、栄養不足による代謝の機能不全が不調の原因であり、慢性病の最大の要因なのです。
体内に蓄えられている栄養素は有限であるとともに、日々供給されなければ枯渇してしまい、消費と供給のバランスが狂い、消費が上回る事で「免疫力」の低下を招きます。栄養不足と化学物質の蓄積を促進する現代食は、三重苦・四重苦に留まらず、更なる負の連鎖を引き起こし健康を蝕みます。つまり、悪食という不自然食を常食する食習慣は、自らの生命力を削り取る行為でもあるのです。
この様に各臓器は蓄積する毒素によって、徐々に機能を失い、結果十年~三十年後になって突然、難治性の病に侵されている事実に驚天動地し、苦しい闘病生活を強いられるのです。これを避け、免疫力を高次元で維持する肉体は、生命力が強く、次世代の命を生み出す栄養豊富な食品を選び摂取する以外に方法はありません。
そして完璧とも云える「自然治癒力」を起動させるには、人体の仕組みを理解し、常識に忍んでいる「ウソ」を打ち砕く意識改革が重要となります。病氣に煩わされる事の無い完璧な真の健康とは、生かされていることの喜びを心底感じられる人生でもあるのです。
病氣を発症するまでには、「未病」という状態があります。健康な状態から、病氣に移行するまでの不健全な状態のことです。東洋医学の考え方なのですが、体調不良で病院に行っても、「問題なし」と診断される状態の事で、これには風邪やインフル、コロナも含みます。免疫を整える手段を熟知していれば、感染症や体調不良にお陥ったとしても、対処できるのです。
ウイルスを恐れる余り、罹患した患者を隔離する事が、常識的な対応ではあるのですが、ウイルスの毒性や感染力の問題ではなく、自らの「免疫力」の強弱の問題なのです。環境の中には様々な細菌・ウイルス・カビなどが存在し人類と共存してきた歴史がある事は、誰しもが認めるところですが、自己免疫を高く保ち、完璧な健康体を維持する事が本筋の対策なのです。細菌やウイルスを敵視をするのは、天に唾する愚かな行為である事を知らねばなりません。
「免疫力」が低下して、体調不良が繰り返され、風邪を頻繁に引く状態の事が「未だ病に至らず、食を改めよ!」との警告なのです。数年に一度程度の風邪であっても、真の健康体とは言えません。コロナなんて「真の健康体」であれば罹患することなどありませんし、不調など微塵も感じる事の無いのが「真の健康」なのです。
これらの体調不良は、悪食により生じ、その不調は直ぐに消えますが、定期的に襲って来る様になります。それは「邪食はしないでよ!」との、体からの「悲痛なメッセージ」なのです。食の改善がなされない限り、徐々に悪化して体は蝕まれ続けて、免疫力が奪われ、体中が痛んでくるのです。決して偶然に病が発症する事はありません。
しかし、生まれる前から現代食に毒されている状態では、「真の健康」を経験したことが無く、時折襲ってくる不調を、生きていれば当然感じる程度の事だと思い込み、意に介する事無く、この「未病」と云う危険水域に在る状態を、健康体と勘違いしてしまいます。自然に反した食習慣によって、心身の不調はやがて病という形で現れるのです。不登校や自殺の多さは、社会の活力を奪い、国力の低下とも無縁ではありません。
それは「食が血となり、肉となる」という、食が生命を支えているという知恵を置き忘れた結果であり、家庭や地域の教育力の低下が背景にあり、核家族化が進み、個人主義が行き過ぎた結果でもあるのです。人体生理の仕組みを理解する事で、食の改善が必要であることの認識を肝に銘じて、命の喜ぶ食習慣を継続する事でしか健康は得られません。
また、国民皆保険という優れた医療制度にも、同じジレンマがあり、少ない負担で高額な医療を受けることが出来るのは、本人や家族にはとても優しい制度ではあるのですが、僅かな発熱や風邪で病院を受診する事が常態化し、医療に頼り切る事しか健康管理の選択肢を持たない姿は、狂気の沙汰であるとしか、私には思えないのです。それが医療崩壊・国家破綻に向かう元凶だからです。
医源病や薬 源病がある事は、公にされることは少ないですが、医療費の増大は国家財政を圧迫し、増税を国民に迫る言い訳にもなっている事なのに、国民の関心はあまり高くありません。が、ゆっくりと確実に国家破綻に突き進んでいる事は、知る人ぞ知る重大事なのです。過半数を占める、多くの国民が政治に関心は無くとも、無関係ではいられないのです。
食習慣を改めることで、財政負担を軽減し、医療崩壊を防ぎ、健康を取り戻すことが出来るのならば、一挙両得ならぬ、三方良し、八方良しの最適解のはずなのに、国の腰は重く無関心です。巨大な既得権益がそれを許さないのですが、我々の血税がどう使われるかという事に、関心を持たねば国を誤らせます。庶民がすぐにでも出来る改革は、家庭の食を見直し、大切な家族に真の健康を取り戻す事なのです。
食と体の関係を熟知する事で医療に頼ること無く、高度な健康管理が、自分の判断で可能になるのです。医者のような専門知識は必要なく、日々の摂取する食物を、自然の摂理に従って選ぶだけでいいので、手間いらずで経済的にも無駄がなく健康に寄与できるのです。深刻な病に移行する前段で、あなたが管理する肉体からは「不調」と云う警告が送り続けられているにも拘らず、それを無視し続けた結果が最後通牒と云う深刻な病氣なのだと理解して下さい。
それでも病氣が宣告された時点で、冷静な判断を誤り、医療に頼り切りになる事は、賢明な選択ではありません。事態を悪化させることになるのは目に見えています。これまでの生活習慣を悔い改め、食の改善を実行する事で健康を取り戻す事は可能であります。
そう、喰いを改める事でしか根本的な解決にはならないのです。
社会に流布する枝葉末節の健康法や、医者に頼る事では解決になりません。それでは根本治療ができないからです。例えば河川の汚染が著しく、水質改善が必要な時に、水だけを回収して水質を浄化しても意味がない事は誰にも理解できることなのですが、健康法を試すとき、それと同じ意味のない事を行っているのです。病院での治療はもっと最悪で、利益追求の検査や投薬の対処療法を試みるばかりで、医源病の併発を伴う危険が増すばかりです。
病院で受診して治ったというのは「大いなる勘違い」であり、自身の自然治癒力が働いた結果なのではありませんか。
本物の健康,【真の健康体】を求めるならば、人間の身体の仕組みを學び、決して偶然や突然発症する病など無い事を理解し、生活習慣を改めねばなりません。病に通じる「悪食」とそれを許す「こころ、-氣-」が病む事こそ、文字通り「病氣」の原因なのです。
それを防ぐには汚染源を絶ち切り、生命力に満ちた食材を選ぶしか方法は有りません。その為の本物の情報を必要とするならばここが少ない選択肢の一つです。
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誤解を恐れず申し上げると、日本の医療は「医の本質」を見失い、経済優先の既得権益者の為の制度と成り果て、患者の健康を回復する為の制度ではありません。受診する度に患者のリスクが増し、その想いとは裏腹に健康が遠のくのです。心ある医療従事者は、その様な患者の健康回復に繋がらない制度に、忸怩たる思いを募らせているに違いありません。
しかし多くの関係者は何の疑問さえも抱かずに、日々の業務をこなすだけなのです。患者も経済的負担が軽微である為に、当然の如く制度に身を任せてしまう様になっていくのでしょう。しかし医療という権威にすがり、身を亡ぼす事は、神聖な命への冒涜でしかありません。
多くの人々が、愛する家族の陥る不幸な病の連鎖によって、入退院を繰り返す事で、回復の見込みのない闘病生活を、身近に体験しているにも関わらず、病院通いを唯一の手段と思い込み「何かが違う、どこか間違っている!」との疑問を持たないのは、どうした事なのでしょうか。寿命なのだと諦めているのでしょうか。
「順送りだから仕方がない!」と云う考え方があります。歳の順にお迎えが来ることを表す表現ですが、死を待つ意味ではそうなのでしょうが、そこには加齢と共に病を得て、苦しむ晩年を過ごさねばならない苦渋が滲み出ている様に感じるのです。
歳をとり終末を迎える事は避けられない事なのですが、元気で耄碌する事無く、矍鑠として元気な余生を楽しんでいるご老人も少なからずいらっしゃるのです。老いる事で病むのでは無く、不自然食品の飽食によって人は病む事を肝に銘じなければなりません。
老化してしまう事は致し方ありません。これこそ自然の摂理なのですが、居た堪れないのは、子供の死であります。常識の嘘に翻弄されて、防げるにも拘らず、間違いによって病み、あたら若い命を散らせてしまう事なのです。こうして、老若男女に関わりなく、不自然食に肉体が蝕まれ、貴重な人生を損耗して行くのです。
そうして晩年は、平均十年の介護を受けながらの闘病生活を余儀なくされるのが日本の現状です。人口割の病院数とベット数は世界の第一位です。例えば、財政破綻した夕張市では、医療崩壊により病院の閉鎖が相次ぎましたが、その結果病気による死亡者数は激減したのです。似た様な現象は世界各地で報告されています。
全国の病院数の県別の統計でも、病院数が少ない県と多い県の比較調査で、病院数が充実している県のほうが、病死者が多いという統計があるのです。つまり現代医療を積極的に受ける事の方がリスクが高いことを表しています。この様な事実は 大々的に報道され無いのです。何故ならば、既得権者への忖度があるからにほかなりません。庶民が賢くならねばならない理由がそこにあります。
平安時代の昔から、「寺子屋」で庶民の向学心を満たしてきたという事実があります。江戸時代の末期には二万余りの寺子屋が存在していたと考えられ、その数は現代のコンビニに匹敵する数です。また、余り知られていませんが、世界で最古の大学が法隆学門寺なのです。この様に古くから學ぶ事が大好きな民族だったのです。
1549年のザビエルの来日以来、明治初期までに来日した欧米人が驚くのは、日本人の民度の高さです。欧米列強以外の世界中の国家が、全て植民地支配されていた中にあって、唯一、日本だけは独立を保っていたのはその民度の高さと、それ故 の兵の強さです。武士の戦闘力と言っていいかもしれません。
二度の「元寇」を防いだのも鎌倉武士の心意気でした。そして種子島に鉄砲が伝来して以降、自国で生産・改良して、当時の列強をしのぐ世界一の軍事大国でした。それでも諸外国からの狡猾な侵攻を防ぐには、鎖国をすることでしか国を護れないとの判断であったのでしょう。その鎖国によって、産業革命の波に乗り遅れ、幕末の動乱に繋がります。
その後、血の滲むような努力によって、短時日で近代化を果たし、日清・日露戦争を多大な犠牲の下に勝利したのです。当時の弱小国 と思われていた日本の勝利は、それこそ世界中が驚天動地したのです。それ以来、日本を畏怖した米国は、対日戦争(オレンジ)計画の研究を半世紀かけて練り上げ、日本の弱みと強みを徹底的に研究、その計画通りに対日戦争を仕掛けてきた事を知る人は多くありません。
それは大戦後も名を変えて、現在も継続中である事は間違いない事実でしょう。その一環で日本の強みであった教育が奪われてしまっているのです。ことほど左様に大陸国家のアイデンティティは、百年単位で「謀り事」を実行する事に長けているのです。
現代のマークシート方式や選択問題が教育の中心になって、呈示された選択肢の中から選ぶ回答方式は、自分の頭で考える能力を奪うように仕組まれた教育法なのです。結果、答えのないところから、最も適切な最適解を導き出す能力が、失われつつあると言ってもいいでしょう。
国民の方を向いていない為政者にとって、これ程都合の良い事はありません。既得権益者の為の利益を追求する為には、国民の思考力を奪い、都合よくコントロールする事が最善だからです。国民あっての国家なのですが、身の保身と既得権益にしか興味のない政治家が、いつまでも退場する事無く、国家の舵取りを任されている事実は、多くの国民が政治に無関心だからであり、それこそ彼らの意図するところなのです。それを許し、放置する事は国民としての権利と義務を放棄する事に他なりません。
唯一 無二の独特の伝統文化を持つこの国は、世界最古の歴史を誇る国家でもあります。その維持は、並大抵のことでは成し遂げられなかったはずですが、この国家を守り抜き、次の世代に受け継ぐ事こそ、先祖や子孫への責務なのです。今、その国の存続が危ぶまれるところまで、衰退し大変な状況に陥っているのですが、多くの人々はその事に、余り関心を示しません。
経済が活力を失っているとはいえ、まだまだ余裕が有る事の証かもしれません。落ちたりとは言え、世界第四位の経済大国でもあります。その余裕のある間に、少子高齢化の時代を乗り切り、生活を立て直す算段を行う必要に迫られている危機 的状況なのです。
それには、食を改めることで、何の憂いも感じる事のない、強い心身を身に纏う事が必要なのです。憂いの無い心身とは、身も心も疲弊する、雑事からの解放を意味します。それは、意識(精神)の開放に繋がり「積極の心」が養われるでしょう。さすれば、難局を乗り越える叡智も湧き上がってこようと云うものです。この日本では革命的な変化は期待できません。ならば、庶民から広がる草の根の取り組みこそが必要な活動だと思います。
私たちは「考える葦」であらねばならないのです。
生命誕生の四十億年、地球進化の歴史から、人類発生の歴史を紐解き、それに続く現代社会の玉石混交の情報の海の中から、余計な情報を削ぎ落す事で、垣間見る事のできる本物の情報が浮かび上がってきます。
その一つが数千年かけて時の権力者が探し求めてきた「不老不死の妙薬」なのです。そして今も尚、その研究が存続しているのをご存じでしょうか。世界の大富豪が巨額の投資を行っているらしいのです。五十年~百年後には、その答えが見つかるかもしれません。
しかし、完璧な健康体を維持する方法は、数千年前から人類の叡智として語り継がれ、知る人ぞ知る事実なのです。完璧な健康体を体現できたからこそ、先人は不老不死の夢を追い続けてきたと言ってもいいのでは無いでしょうか。
もっと言えば、完璧な健康体はホモサピエンスの肉体に備わっている機能と云っても良いでしょう。私達は、意識を変え、自然と寄り添う生き方によって、穢れの無い心身を手にし、持って生まれてきたであろう、天命に心血を注げる存在になれるのです。
現代は科学技術の発展で、その機能を最大限に発揮する快適な環境が整っているのですが、自然から乖離する生き方が、それを阻んでいるのです。その背景にあるものは、悪しき資本主義の弊害なのですが、その術中に陥る事無く、縄文時代のような争いの無い、或いは江戸時代がそうであった様に、相互扶助の「萬丸」な「まーるい」社会構築が望まれるところです。
地産地消の自然の恵みと共に在る時、人類は健康で精神的な豊かさを享受できるのでは無いでしょうか。つまり「自然の摂理」に従って生きる道を選択するだけで良いのです。
「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合-半」。それ以上を望むから争いを生むのです。質素な食生活が最強だと思いますが、贅沢な食は悪食に通じます。それを望むことも否定はしません。只それは週一、月一が健康の秘訣でもあるのです。
完璧な健康体である「真の健康」をその手に収める知恵と技術を体得すれば、本来のあなたの役目を 全うする事だけに、集中できる環境が整うでは有りませんか。煩わしい病院通いや、闘病生活から解放され、与えられた有限の時間と資本を、本来の生きたい人生の為に、仕方なく働くのでは無く、人生の生甲斐に没頭すれば、それが社会貢献につながり感謝され、必要な人財となれるのです。
家庭や社会のお荷物から、正反対の地域の人財となって重宝される人生が待っていると想像するだけで「わくわく」するではありませんか。人は加齢とともに病むのではありません。不安や恐怖、そして悪食によって病むのです。一所懸命に生きた結果が、ベッドに繋がれた晩年で良い訳がありません。多くの人がそうなるのは、常識の「大 嘘」に翻弄された結果なのです。
その具体的な解決策は実は単純明快で、常識を打ち破る「意識改革」なのです。簡単な様で難しくもありますが、社会の常識は猛毒を含んで人を蝕みます。が、様々な本物の情報に接する事で、あなたの琴線に触れる言葉や感動は、一瞬で人の意識を変えるのです。
悲嘆に暮れる人生よりも、意識改革によって得られた健康の先に広がる自由への扉を開けてみませんか。真理はあなたの手の中にあるのです。
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